127時間としんぼる

「127時間」を観た。

監督がダニーボイルで評判も中々だったのだが、これだけではわざわざ映画館に観に行かなかったし、感想もここには書かない。
今回ここに書こうとした理由は、テーマが松本人志監督の「しんぼる」と被っている部分(ほとんど同じかもしれない)があるからだ。


以下ネタバレがあるので「127時間」と「しんぼる」を観てから読んで下さい。


まず、「127時間」と「しんぼる」の共通のテーマは「脱出」だろう。
閉塞した、袋小路な状況からの「脱出」。
今の時代への、あるいはこういう状況に陥っている人達に向けたメッセージ的な映画とも捉えられる。
このテーマを各々の監督がどの様に表現しているのか比べながら、感想を書いていこうと思う。


・シチュエーション

「しんぼる」は主人公がパジャマ姿で目覚めると、いきなりそこは白い壁に囲まれており、見上げると天井は見えない空間に閉じ込められている。
壁に突き出ていた物(チンコ)を押すと壁からたくさんの子供の天使(?)が現れたと思いきや、チンコだけ残して壁へと戻っていく。そして、それらのチンコを押すと色々な物が出現する。


一方「127時間」は主人公がユタ州のキャニオンランズ国立公園への一人旅の途中に、事故(あるいは自ら招いた事)で谷間に落ち、その時崩れてきた岩に腕を挟まれ抜けず、その谷間から出れなくなる。

「しんぼる」の閉じ込められる空間は「造形的」で、「修行」「実践」「未来」の3つが存在する。
チンコを押すと物が出現する始めの「修行」空間は、出てくる物の種類や、無限に出てくる事。髪型、パジャマのデザイン等から少年期を表していると推測される。
「実践」空間は青年期〜現在を表し、「未来」空間はそのまま現在〜未来。


対する「127時間」は現実的な「大自然」の中。所持品は水やロッククライミングや旅道具といった「有限」な物。もちろん「現在」を表しているが、主人公の回想や幻想?からは少年期や青年期といった過去や、子供のいる「未来」も表している。


・脱出と脱出する為の試行錯誤

「しんぼる」に関していえば、最終的に「脱出」という事はない(あるいはできない)という事もできる。
しかし、ターンニングポイントというか、ブレイクスルーというか、はじめの「修業」からの「脱出」がある意味「脱出」方法や、「脱出」する為の試行錯誤が表現されている。
「しんぼる」の主人公は、始めそれこそ「手探り」な形で、失敗やゲガ(打撲)を繰り返して「脱出」を試みる。そして試行錯誤の結果、始めの扉(あるチンコを押すと壁に出口が出現)を抜け、その奥に存在する外への出口と思われる扉の鍵も空けられた。これで「脱出」できると思いきや、始めの扉と出口の扉との距離が短く、出口の扉が引き戸になっていた為、始めの扉が閉じられると出口の扉も開く事ができなくなった。
始めの扉と出口の扉の間に閉じ込められた主人公は、途方にくれる。
しかし「横」の壁から風を感じ、何気なく襖を開ける要領で、壁を横に引いてみると前方には「通路」が存在した。横の壁だと思われる物は片引き戸の扉だったのだ。
僕はこれが松本人志の初めてのブレイクスルーの方法(あるいは感覚)を表していると解釈する。
「出口」という物は「正面」だけではなく「横」にも存在し、その存在に気付けば案外簡単に扉は開く。

そして「通路」を駆けぬけると、また前と同じ様な「空間」(実践)に出る。
前と違う所は、周りが暗い。天使が壁から現れチンコを残してまた壁に戻るのだが、それらの天使は前の空間では子供だったが、この空間では青年(大人?)の天使である。
それらのチンコを押してみると、今回は何も起こらない。(実際は別の場所で起きている)
上を見上げると、一人天使が自由そうに飛び回っている。

それに向かって、チンコの突起を使いロッククライミングの要領でよじ登る。(駆け上がる)
「実践」では試行錯誤というより、状況を確認した後は「上」に向かって駆け上がるのみである。

そして駆け上がった結果、待っている次の空間(未来)の背後の壁には「世界」の地図が浮き出て、前方には大きなチンコが存在する。



一方「127時間」は「試練」を乗り越えるという形で「脱出」は明確に存在している。
脱出の為の試行錯誤は、「しんぼる」の「修行」の時とは違っている。
主人公は大人(年齢的に)で旅慣れており、こういう状況に対する為の知識もある。成功はしないが、色々な試行錯誤の仕方が「しんぼる」のそれとは違い、知識や技術を感じさせる。

主人公は早い段階で、最終的な脱出方法は解かってはいるが、それをする事によるリスクがデカ過ぎる為、他の方法で脱出を試みる。
しかし、主人公「1人」で、今手持ちの「道具」を使ってでは他の方法では脱出できない。
自分のションベンを飲んででも、それを避けたいと思い、死ぬ寸前まで決断できなかった方法。
中国製の切れ味悪すぎる、小さな万能ナイフを使っての腕切断。
「127時間」で表している「脱出」はつまるところ、「中国製の切れ味悪すぎる、小さな万能ナイフを使っての腕切断」程の「試練」を受け入れる「覚悟」と「決断」だと思う。
(他者(家族も含め)との繫がり、助け合いも必要なものとして描かれているがそれについては次に書く)


・他者の描き方、映画の方向性、そして子供
「水」の描き方の違いや、閉じ込められたら両主人公とも、叫んで「助け」求める所。登場人物が少なく(ほとんど1人)ても飽きさせない工夫。といった他にも比べると面白い所はまだあるのだが、長くなったので割愛する。
今回「しんぼる」と「127時間」の1番の違いは何かと考えた所、「他者」がキーワードになっていると思った。

天使をどう捉えるかにもよるが、「しんぼる」で最後まで主人公と直接関わっている「他者」(人間)は現れない。理由は色々あると思われるが総じていえば、「松本人志」が演じて監督をしているからだと思う。
当たり前だが、他者がまったく描かれていない訳ではなく、「しんぼる」の主人公はチンコ(しんぼる)を通して他者と関わっている。

「127時間」の主人公は谷間に閉じ込められる迄は、他者との関わり合いには消極的(むしろ必要としない?)だが、閉じ込められてからは他者のありがたさや大事さが描かれており、最後には主人公が他者に間接的にも、直接的にも助けられる。

「しんぼる」はあくまで「自分」1人を描いており、「松本人志」の内(精神世界?)に向かった求道的な映画。

「127時間」は・・・あれ?今書いていて気が付いたけど、「しんぼる」は宗教的な物も感じてたけど、「127時間」も宗教的だな。

結局「しんぼる」は仏教的(アジア的?)であり、「127時間」はキリスト教的(欧米的?)という事か?

最後に「子供」についてだが、僕はまだ子供がいないのでなんとも言えないが、「しんぼる」には子供の誕生を予感させ(次作さや侍では描いている)。「127時間」では主人公が想像する未来の主人公の息子が最後の決断の後押しをしている。

「映画」を観た当初の感想としては「127時間」の方が面白かったと感じていたが、こうして比べて、掘り下げると、いやはや「しんぼる」もなかなか。というか、内容や方向性でいうならばこうしてみると「しんぼる」方に惹かれるな。

「脱出」というキーワードの映画がもう2つある。
それは「板尾創路の脱獄王」と「エッセンシャル・キリング」である。
「エッセンシャル・キリング」はまだ日本未公開なので、観た後今回のように「板尾創路の脱獄王」と比較して感想を書けたらと思っている。